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大学山岳部員の個を弱体化し、大学山岳部そのものを自滅へ追いやった。 高い山へ登るのに、極地法を採用すること自体がそもそも見当ちがいだったのだが、そのことにさえ気づかなかった日本の大学生というのは、相当に頭が悪かったのであろう。
ひと昔前に、大学山岳部だけがヒマラヤといっていたことには理由がある。 経済力の低かった日本では、まだ外貨を自由に使うことができなかった。
ヒマラヤへ行くためには、まず日本山岳会に割り当てられた外貨の枠を使う必要があった。 このことは、大学山岳部にしかできなかった。
一部の大学山岳部は、学術研究が目的であるという名目を作って、学術調査の外貨枠を取って、ヒマラヤへ出かけることもできた。 社会人には、それができなかった。
いくら日本の冬の岩壁できびしい登山をやっていても、外貨をとれない以上、ヒマラヤヘいくことはできなかった。 そこで、社会人は冬山のバリエーションルート開拓に力をそそぐことになったのである。
M本龍男とかY尾弘とかのヒーローがこの時代に生まれた。 創刊当時の「岩と雪」は、そのような時代の社会人登山家の、冬の岩壁登撃の記録が満載されていた。
「岩と雪」は、一九五八年に、いまより小型の本で創刊された。 Y田二郎氏の「スーパーアルピニズム試論」と、H多勝一氏の「パイオニアワークとは何か」の二つが、記憶に残る名論文である。
同誌は、確か季刊、編集はK崎隆章氏であった。 初期の「岩と雪」は七号で休刊された。

私がアコンカグア南壁を登った年、「岩と雪」は再刊された。 一九六六年であった。
そのときも、小型で季刊だったと記憶する。 編集はI間正夫氏だった。
この時期から私も同誌に書くようになった。 どの号かに、日本山岳会を弾劾する一文を書いたところ反響が大きく、Y川茂雄氏やK崎隆章氏から、ファンレターのようなものをもらった。
U田哲農氏やO山章氏も当時は健在で、「岩と雪」に書いていた。 その後、U田、O山、Y川の順で他界されたことは、実に残念で寂しい。
再刊後の「岩と雪」は間もなく大型化し、隔月に出版され始めた。 編集長はT国保氏となり、I田常道氏が補佐であった。
その頃、ヒマラヤ登山は八千メートル峰のバリエーション時代を迎えた。 マカルー東南稜(七〇年)をすませたあとの私は、「岩と雪」の座談会などに引っぱり出された時期もあった。
その後のヒマラヤは、世界的傾向としては、個人主義の時代へ入り、メスナーなどが活躍を始めた。 日本山岳会や日本山岳協会は、あいも変わらず大部隊をエヅエレストやK2へ送りつづけ、中国人へ億単位の入山料を払う始末であった。
バブル経済といわれる、いかさまの繁栄時代に、山の世界も腐敗し、低級な山の政治屋がはびこったのである。 考えてみれば、山の政治的仕組み自体が、おかしなものであった。

それをみていると、後進国日本の姿が、そのまま現前しているようだった。 このことは、いまもって改善されていない。
その後、フリークライミングやポルタワングが「岩と雪」の頁を占めるようになった。 その頃からヒマラヤ登山も下火になり、同誌に対する私の興味もうすらいだ。
というより、登山家としての私は峠を越えた。 私の最後の登山は九〇年のマカルーだった。
そこで、私はヒマラヤ登山を止めた。 身辺整理すべきことは山積していた。
友人も六人失った。 I田編集長は「岩と雪」を送りつづけてくれた。
すっきりした編集であった。 I田氏は、一八年にわたって、「岩と雪」の編集長でありつづけたことになる。
彼のもとに蓄積された情報の量は膨大であったし、クロニクル(編年史)としては充実していた。 「岩と雪」は、採算に合わなくなったようだ。
さる三月一〇日(一九九五年)、「『岩と雪』を語る会」が、東京で持たれた。 そこに集まった100人ばかりの人たちをみて、その層の厚さに、あらためて感心した。

現代日本登山史において本当に活躍した人たちが、年代順に集まっていた。 これだけの陣容を誇る山の集まりは、ちょっとない。
まず、そのことに感じ入った。 「岩と雪」の真価が、集まった人たちの顔ぶれによって証明されたと思った。
残念に思ったのは、「岩と雪」が休刊になったあとに、この会があったことだ。 こういう会は、「岩と雪」が出版されている時期に、もっとあってよかったのではないか。
同誌が、登山家の、つまり同誌の執筆者と読者と編集者とのパーティーを、ときどき、もってくれるとよかったのである。 登山家同士の交流の場は、多いようで実際には少ない。
山の話だけをしていて退屈しないような、そんな刺激的な会合がいまは少ない。 利権にむすびついた山屋ではなく、人間としての内容のある登山人たちの集まりを再編成するためにはどうしたらよいか。
思想や批判精神のない登山家には、いい文章は書けない。 登山家が読むに足る文を書けないなら、どうして山岳雑誌が成り立つというのか。
若い登山家諸君も、その点に思いを致してほしい。 新しい山岳雑誌を目論むときは、登山家も編集者も、データ主義から人間主義に転ずるべきであろう。

子供の頃の私は手のつけられない腕白であったが、部屋にこもっているときは、たいてい絵に熱中しているので、母も安心していたらしい。 母が小学校一年の私にピアノの先生をつけたのは失敗だった。
先生が来るたびに、私か屋根をつたって逃げてしまったからである。 山に登るようになってから、リュックサックにスケッチブックを入れて家を出だのはいうまでもない。
高校時代から始めた油絵は、先生についていたから、いろんなものを描いたが、自分の好みから、だんだん風景を描くことが多くなった。 海外の山へ行きだしてからは、画材の重量を減らすために、水絵の具やパステルを持参したこともあった。
結局は、油絵一本に落ち着いた。 いつか、水絵は油絵の補助手段に変わった。
多少、道具が重くなっても、油絵一本でいく決心をしたのには理由がある。  ある日、パリから羽田へ向かう飛行機のなかで、偶然にも隣に座った人物が画家だった。
滞仏一五年目の彼は、日本で個展をひらくために、帰国の途にあった。 この人の絵画論は、さすがに真実を衝いていた。
「絵も結局は体力です」といった。 「ミケランジェロもゴヤもピカソも、まずは、常人にない体力の持ち主でした」。

まさに、当時の私が、ヒマラヤの登山について提唱していた体力論と軌を一にする発言であった。 芸術活動のH動力を、単純に体力というよりは、心理的子不ルギーというほうが適切かもしれないが、いずれにせよ子不ルギーの根元には体力がある。
私はその画家に、ヒマラヤへ持ってゆく絵の具はなにがよいか相談してみた。 彼の答えは単純で明快だった。
私は、この意見を聞いてから、海外の山へは労をいとわず油絵の道具一式を持ってゆくことにした。 初めは絵の具箱に入る四号の板を携行していたが、そのうちに六号からI〇号のキャンバスを持ってゆくようになった。
結局は、キャンバスを入れるために特別注文したジュラルミンの箱をいまでは使っている。 ワスカランもレーニンもシシャパンマも、それぞれのベースキャンプに三脚を立てて、休養に下がってくるたびに少しずつ描いていった。
はげしい登高のあとにも、疲れを押してそれをやった。 自分の登ろうとしている山を描いていると、不思議に恐怖がうすらぐのである。

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